めっちゃ興奮してるよこの人、ギンギンだよ─。
スマイルスマイル。
夜 見 川 麻 耶 は、春風に揺れる花のように笑む。
紺色の空に、満月だけが冴え冴えと白い。
月光が射しこむ廃工場の中で、麻耶は四十絡みの男と正対していた。
かつては鋼材が所狭しと並んでいた床には、飲み食いのゴミとがらくたが足の踏み場もないほど散乱している。
木製のスツールに立つ男の首には太いロープの輪が掛けられ、反対の端はクレーンのフックに結わえられている。歯の隙間から白い息が間断なく漏れる。男は全裸であった。締りのない貧相な裸体を、びっしりと鳥肌が覆っている。
スツールの上でもじもじする全裸男を、麻耶は大きな瞳でにこやかに見上げる。胸にはハンバーガーチェーンのロゴが印刷された紙袋を抱えている。手付かずのチーズバーガーがほんのりと温かい。 太 腿 に貼りつけた絆創膏から 滲 んで垂れた血がニーハイソックスを汚していたが、彼女はまるで気にしていなかった。
「ぶら下がった途端、切れたりしないかなこれ。ねえどう思う? どう思う?」
「心配しすぎなんじゃない? 大丈夫だってば、新品なんだし」
麻耶の気休めに、全裸男が深々と息を吐く。
「ここ一番って時に限って失敗やトラブルが起きるんだよね、俺の人生。高校入試の時は乗ってたバスが事故るし、仕事では納品の前日に取引先が潰れちまうし。ああ、本当に大丈夫かなあ。心配だなあ。心配だなあ。しくじったりしないかなあ」
「じゃあさ、失敗の予想を変えてみない?」
くどくどしい泣き言を、麻耶の明るい声が断ち切った。
「ロープが切れるんじゃなくて、クレーンが落っこちちゃうの。鉄の塊がどかーんと落ちてきたら、頭なんてひとたまりもないでしょ? それはそれで結果オーライじゃん」
全裸男はゆっくり真上へ顔を向けた。塗装がまだらに 剝 がれ落ちたクレーンが、闇を溶かした天井から冷たく男を見下ろしている。
「あは」と、全裸男の口から笑いが漏れた。
「そうか、結果オーライか。首が絞まってもよし、頭が砕けてもよし。ははは、結果オーライ、はははは」
「あはははは、オーライオーライ、あはははは」
全裸男と麻耶の 笑 声 が、 廃 墟 の闇に吸いこまれる。
結果オーライを十二回繰り返し、男が麻耶を見据えた。きらきらと澄み切った瞳は、焦点がすっかり飛んでしまっていた。
「ああ、俺どこに行けるんだろう。地獄かな天国かな。どんな世界が待ってるんだろう。麻耶ちゃん、ちゃんと見届けてくれよ。俺が最期にどんな顔するか見ててくれよ」
「オッケー、任せて! 写メも撮っちゃう」
「絶対だよ絶対。あ、そのチーズバーガー食べちゃっていいから」
「うん、あとで 貰 うね」
お客さん、そろそろ時間です。お忘れ物のございませんよう。
「それじゃあ、いいい 逝 ってくるっ!」
「逝ってらっしゃーい」
裸の足がスツールを蹴る。クレーンの鎖が甲高く 軋 った。
「ねえ、あたしとのデート楽しかった?」
麻耶の声は、絶叫マシーンの感想を恋人に 訊 ねるかのように弾んでいた。
きっと楽しかったよね、ロープも切れなかったし。
全裸男の 痙 攣 は、既に止まっていた。
ダウンジャケットのポケットから携帯電話を取り出し、約束通り全裸男を撮影する。
弛 緩 しきった男の顔は、空の月より蒼白かった。
断末魔に漏れ出した 糞 尿 から立ち昇る汚臭が、工場の 錆 臭 さと混ざり合う。
「臭いもきついし、あたしそろそろ行くね」
あ、そういえば名前 訊 いてなかったっけ。
「ばいばい、おっちゃん」
シャッターから潜り出て、携帯電話でワンコール。
通話終了ボタンを押すと、物陰から人影が二つ、ほとんど足音を立てずに現れた。
中背の筋肉質とコマネズミのごとき 短 軀 の金髪頭。
二つの影は麻耶をちらりとも見ず、廃工場の闇へ消えていった。
「そんじゃ、あとはヨロシクってことで」
冷め切ったハンバーガーの包みをぼろぼろに錆びたドラム缶へ放り入れ、麻耶は工場から立ち去った。人懐っこい笑みはとっくに消えていた。
くたびれた工場や倉庫の群れをすり抜け、商業ビルの谷間を縫いながら二十分ほどを歩き、量販店やサブカルチャーショップ、飲食店に風俗サービス店などが無節操に 軒 を連ねるS町へと 辿 り着く。町を東西に割る金物屋通り、通称「デート通り」の混沌としたざわめきが麻耶を吞みこんだ。
「昨日のテレビでさ」「飯どこにする?」「いらっしゃいませぇ」「再放送いつだっけ?」「毛ジラミじゃね?」「限定販売のボックスが」「一時間四千円ポッキリ!」「あの女ヤバくね?」「マッサージ、ドデスカ?」「レポート忘れてた」「ですからその内容では 稟 議 が」「新機種欲しいな」「吐きそう」「終電までには帰るってば」「寂しい」
行き交う人の波と、客引きの売り声を 搔 き 分 け、適当な場所を確保して、A4サイズの黒いビラをラミネートしたメニューカードを胸の前に掲げる。
目立ち過ぎないように、しかし埋もれてしまわないように。
寒くなってきたなあ。
デニム地のミニスカートの裾から冷気が忍びこみ、身震いが全身を駆け抜けた。
斜め向かいの同人ショップの店頭に立てられた、クリスマス限定ボックスの予約受付を告知するポップサインが視界に飛びこむ。まだ十二月にもなっていないのに、 巷 はクリスマスの装いを見せ始めていた。
「じんぐるべーる、じんぐるべーる、か」
歌詞が曖昧になり鼻歌へ変わった頃合いに、目鼻と感情の凹凸を欠く馬面が、メニューカードを覗きこんでいた。
「これ、リフレ?」
肉体労働とは縁が遠そうな細い指が、金文字で記された宣伝文と料金をなぞる。
デートクラブ『あずらえる』 キュートな女の子と楽しくデート!
一時間 二万円~
「ぶー、不正解。お散歩でーす」
「二万」馬面が親指の先を 咥 える。「裏オプとか、あるの?」
「お散歩だけだよ」
馬面が 歯 茎 をむき出しにして爪をがりがり 囓 る。
「散歩だけで二万?」「そう」「本当に裏オプ無いの?」「無いよ」「追加でいくら払えばいい?」「だから無いってば」「一万足す」「無いって」「二万」「しつこい」「ヤラせて」「マスでもかいて寝れば?」
にべもなく断ると、馬面は「クソビッチが」と捨て 台詞 を吐いて去っていった。
ビッチじゃないし。
胃袋が、ぐう、と鳴った。
やっぱりチーズバーガー食べておけばよかったかな。
それから二時間粘ってみたが、寄ってくる男たちはことごとく麻耶をうんざりさせた。
ううん家出とかじゃなくて。一万って無理まけられない。言葉責めならそういう店行きなよ。エリちゃんってそれ人違い。店で働く気無いよ。お祈りは間に合ってますから。
聖書を大事そうに抱えた中年女性が去ると、麻耶は深々と息を吐きだした。
鼻の下をでろんでろんに伸ばしたスケベ面にも冷やかしにも慣れてはいるが、あまりに続けばあしらうのにもくたびれてしまう。
ティラミスが 美 味 しい店を訊いてさえくれれば、愛想良く応えてあげるのに。
『じゃあ、お散歩しに行こっか。気持ちが高まったら教えてね☆ アナタの死にたい願望、ばっちり叶えちゃいまーす!』
今日はなんか駄目っぽいな。
立ちっぱなしの 晒 しっぱなしで冷えきった足を引きずり、二十四時間営業のコーヒーショップの横手に伸びる細い路地へすべりこむ。路地の入り口から数えて四軒目の店舗に、麻耶は正面から入った。エントランスには『 BROCANTEDELAMORT 』と刻まれた 真 鍮 製のプレートが掛けられている。
「いらっしゃいま……って、裏から入りなさい、てあれだけ言ってるでしょ」
店主の 嘉 神 が、帳簿から顔を上げて麻耶の無作法をたしなめた。出かけた営業スマイルが、つるりとした 瓜 実 顔 の上で行き場を 失 くして 歪 んでいた。
「ごめんごめん、嘉神ママ」
謝りつつ麻耶は、嘉神の美貌をしげしげと眺めた。
このルックスでアラフォーなんだもんなあ。
明るい茶に染めたショートボブに、彫りが深い顔立ち。モデル顔負けの引き締まった長身のおかげで、ダークカラーのパンツスーツを無理なく着こなしている。
「けどさ、こんな時間まで店開けてたって、客なんて来ないんじゃない?」
「来るかもしれないでしょ、明日結婚する娘に嫁入り道具を持たせようと、親御さんが駆け込んできて」
「ボロいサイドボードをお買い上げ? ないない」
テラコッタの床タイルが敷き詰められた店の中は、統一感を欠いた家具や装飾品と、間接照明が放つ 飴 色 の光で満ちていた。壁際のマントルピースには双子の白人姉妹を写した古いダゲレオタイプと左手を欠いた博多人形とが仲良く並ぶ。エジプト 螺 鈿 のオクタゴンテーブルにはジュエリーケースが載せられ、 煙管 の吸口、ハットピン、ティカ、カメオなどの雑貨小物が詰めこまれている。背の高い年代物の柱時計が静かに時を刻み、その手前に置かれたレディメイドのダイニングセットは新たな主を待ち詫びている。
「手ぶらってことは、今日はもうギブアップ?」
「駄目。辛党ばっか」
純粋にデートが目当ての客を、嘉神は辛党と呼ぶ。その癖は麻耶にも伝染していた。
「もうあがるね。明日も学校あるし」
麻耶はカウンターの上に、 鈍 色 のカプセル型ピルケースを置いた。
ケースをつまみ上げた嘉神が、あら、と意外そうな声を上げた。
「夕方に一人、付いたわよね。『毒りんご』は使わなかったの?」
「自分の工場で死にたいって言いだしてさ。クレーンにロープを結んで、キュッと」
革手袋をはめた右手で、麻耶は自分の首を絞める真似をする。
現地へ到着するなり興奮して脱衣したのは、故人の名誉のため伏せることにした。
死を目の前にして奇行に走る客は、決して少なくはない。拾った石で歯を 叩 き折り、「記念にあげる」と麻耶にプレゼントした客もいたし(もちろん後で全部捨てた)、路上で突然自慰をおっ始めた客に遭遇した(これはしたいようにさせた)こともある。
「それなら明日は大騒ぎなんじゃないの、その工場?」
「とっくに潰れてぼろぼろだったから、誰も来ないんじゃない?」
ふうん、と嘉神はボールペンを手にしたまま腕組みをした。
「死にたい理由は、借金を苦にしてってとこかしら」
「言ってた言ってた。生命保険で借金をチャラにしたいって。奥さんや子どもにもちょっとはお金が遺せたらいいなあ、てさ」
「じゃあ死体が現場に無いとまずいわね。保険金が下りないわ」
ボールペンの軸先が、麻耶へ向けられた。
「それ、 杉 田 と 後 谷 には伝えた?」
「……あ」
嘉神は無言で、胸ポケットからスマートフォンを抜いた。
「鳴ってますよ、マサトさん」
脂光りのテーブルで振動するスマートフォンを、後谷 充 が箸で指した。
「はい、杉田……え、戻せ? 遅いですよ、ナタ爺に引き渡したの、一時間前ですよ」
ラーメンを 啜 る手を止めて応対した杉田 将 人 が困惑の声を上げ、指で 摘 むのも難儀するほど短く刈りこまれた頭をがりがりと搔きむしる。 雲 脂 がぱらぱらと、筋骨隆々の体を包む紺の作業着に降った。
「どうしてそんな……ああ、そうですか……そっすね、じゃあ無かったことで……ええ、ええ……今メシ食ってるんで、もうちょっとしたら……はい、お疲れ様です」
通話を切り上げた杉田に、後谷が「何かトラブルっすか?」と 恐 々 訊ねた。
「麻耶がポカやりやがった。回収しないで現場に残しておかなきゃいけなかったんだと」
嘉神から聞いた話を、杉田は手短に説明した。
「まずいっすよ、それ。今すぐナタ爺のところに戻らなきゃ」
慌てて腰を浮かせた後谷を、杉田は 鷹 揚 な手つきで制した。
「遅いだろ、もう。ナタ爺が仕事に取っかかる早さは知ってるだろ? あのおっさんも今頃、人間の形をしてるかどうか。どうする、駄目元で引き取りに行ってみるか?」
いや結構っす、と後谷は奥歯で 蟋 蟀 を 嚙 み 潰 したような渋い顔で座り直した。
「で、結局どうするんすか?」
「どうもこうもないさ。あのおっさんは失踪者リスト入りだ。オーナーもそれでいいってよ。苦情が入るとすれば、おっさんが化けて出たときだけだ」
「オーナーとマサトさんがそれでいいってんなら、いいですけど」
スープだけが残る丼に、後谷の溜め息が落ちた。
「肝心なとこが抜けてんすよねえ、麻耶って。こないだにしても、道のど真ん中で客に『毒りんご』食わせちまうし。たまたま人通りが無かったからよかったようなものの、一歩間違えれば 大 事 っすよ」
「だからこそ、俺たちケツ拭き要員の立ち回りが重要ってこった」
「女子高生のケツ拭くって、なんかやらしいっすね」
アホか、と杉田が小突く真似をした。
「それにしてもあのおっさん、犬死にもいいとこっすね。こうなると知ってりゃ、もっとマシな死に方もあったでしょうに」
「どうだかな。途中から保険金なんてどうでもよくなったんじゃねえかな。一生でたった一度しか味わえない究極のスリルを存分に味わって、満足したのかもしれねえぜ」
「テーマパークのアトラクションじゃないんすから」
一口サイズの 餃 子 を 頰 張 る後谷を見て、杉田は片頰を上げる。
「いい加減、慣れちまえって。心と鼻を麻痺させちまえば、あとはブツを運ぶだけの簡単な仕事だ。ナタ爺の解体作業を見学した後でホルモン焼きが食えれば一人前だ」
こんな仕事で一人前になっても、誰も 褒 めちゃくれないけどな。
せり上がった自嘲を、杉田は伸びかけの麵と一緒に 喉 の奥へ押しこむ。
店の小型テレビでは、 薹 が立った女性アナウンサーが無感情に、陰惨なニュースを報じている。大手企業幹部の横領。閑静な住宅街で起きた一家惨殺。有名人の麻薬所持。遠い大陸の森に墜ちた旅客機。海の向こうのテロリズム。
「異常が正常なんだよ、俺たちの仕事に限らずな」
楊 枝 で歯をせせりながら、杉田は油でぎとぎとの天井を仰ぎ、また頭を搔いた。
ニュースは天気予報に切り替わっていた。お天気お姉さんがにっこり 微笑 んでいる。
明日は晴天に恵まれるでしょう。
第3回につづく