終業後、麻耶は自宅へ帰る前に買い物を済ませることにした。
八百屋の店主が投げる恨みがましい視線を、狭い歩道を半分塞ぐ耳障りな井戸端会議を、ひっつめ頭の老婆が掛ける「おはよう」を順にやり過ごすと、数年前に出来たスーパーマーケットが姿を現す。猫の額ほどの駐車スペースは常に満員御礼で、若い母親がチャイルドシートを嫌がる我が子に手を焼いていた。
イージーリスニングを浴びながら青果売り場から鮮魚コーナーを通り過ぎ、精肉売り場の手前にある惣菜コーナーへ向かう。割引シールを手にした店員の周りをうろつくハイエナの群れを搔き分けて適当に三品を見繕い、備え付けの買い物かごへ放りこむ。
パン売り場で翌朝に食べる菓子パンを、お菓子売り場では夕飯代わりのポテトチップスを物色してレジへ向かう。研修生のラベルが貼られたネームプレートを付ける店員は手際も滑舌も悪く、別の列に並べばよかったかな、と麻耶は少し後悔した。
食料とペットボトル入りの炭酸飲料を詰めたビニール袋を提げ、えっちらおっちら家へ帰る。腐食して空いた階段の穴に爪先を引っ掛け、危うくすっ転びかけた。
六畳の茶の間では、母親がメイクに没頭していた。嘔吐物の臭いはすっかり消え、シャンプーの香りが室内を漂っていた。
「ただいま、ママ。これ晩御飯。お魚ときんぴらと春巻き」
麻耶が置いた袋をちらっと見ただけで、母親は礼も述べずチークブラシを動かし続ける。
─カミソリ、どこ仕舞ったっけ?
出掛かった衝動をぐっと堪え、麻耶は朝からはめっぱなしだった白手袋を脱いだ。左と右、どちらの手も傷跡や火傷痕でびっしり覆われている。
制服を脱ぎ去って現れた下着姿の至る所にも、古傷は刻まれていた。
左右両方の下腕にはギロを強く押しつけたような創傷痕。右脇腹や左膝、臀部には植皮の痕。縫い跡は顔を除く全身の至る所に走っている。荒編みのモヘアニットに袖を通すと、傷跡たちはすっかり隠れた。
太腿に貼っていた絆創膏の下には瘡蓋ができていた。一息に剝いてしまいたいという欲求を、表面を爪の先で削ることで紛らわせる。赤黒い欠片が畳の上にぱらぱらと散った。
「金は?」
この日初めて聞く母親の声。
麻耶は長財布に仕舞ってあった一万円札をほとんど残らず摑み出し、母親の前に置く。母親は枚数も確かめず、くたびれたクラッチバッグへ札びらをねじこんだ。
「飲むのはママの自由だから止めないけど、ほどほどにね。体に悪いよ」
麻耶が釘を刺すも、無言で母親はメイクに戻る。
厚化粧で塗りこめた母親の横顔は若々しいが、注意深く観察すれば額や目尻に小じわが目立ち、細い鼻の両脇からは豊齢線が伸びるのは隠しようもない。
「じゃあ、あたし仕事行ってくるね」
身支度を終えた麻耶は、ビューラーで睫毛をカールする母親にひと声かけた。
「飲み過ぎちゃ駄目だかんね」
反応無し。ママ様のお言葉、本日合計三音。
早歩きで駅へ向かう途中、ひっつめ頭の老婆がこの日三度目の「おはよう」を寄越した。
学校とは反対方向の電車に飛び乗ると、麻耶は胸に溜まっていた息を大きく吐き出した。
向かいの長座席では、幼子が母親の膝にしがみついて戯れている。舌足らずな言葉では伝えきれない思いを懸命に伝えようとする我が子を、母親は困惑と愛おしさとが入り混じった面持ちで見守っている。
トートバッグからiPodを取り出し、シリコンのイヤーピースを耳孔にねじこむ。再生ボタンを押すと、ざくざくしたグランジのサウンドが頭蓋を満たした。
頭で軽くリズムを取りながら、車窓の外へ視線を投じる。
果てなく広がるビルの森に吞みこまれかけた夕陽が、ゆらゆらと金朱色に燃えていた。
まんどりるー まんどりるー けをむしったらハゲたさるー
『ブロカント・デ・ラ・モール』のバックヤード、廊下と事務室を仕切るアコーデオンドアを引き開けると、音程がとっ散らかった歌声が麻耶の耳に飛びこんできた。
ミーナ、また新しい子守唄作ったのか。
奥に細長い部屋の中央には、ガラステーブルを挟んで合皮張りの安っぽいソファーが二脚向き合って置かれている。部屋奥の壁際には、帳簿を収めたキャビネットが一つ。その手前には黒い無垢材で作られた執務デスクが据え置かれ、プレジデントチェアーに深々と身を委ねてロザリオを磨く嘉神の姿がある。
執務デスクとソファに挟まれる形で、ヒーターとエアーポンプを備えた水槽が壁に接して設置されている。水草がポンプの泡に揺らめく水中をブラックゴーストがただ一匹、腹鰭を優雅に波打たせて泳ぎ回っていた。
腕を組んでソファに座る杉田の隣で、後谷がスマートフォンの向こう側にいる誰かへ語気を荒らげていた。
「ああもう、分かった、分かったから。絶対そこ動くなよ、おっさん!」
端末をへし折らんばかりの荒い手つきで、後谷は通話を切り上げた。
「どうしたって?」と杉田が訊ねた。
「またっすよ、砂原のおっさん。道が分かんなくなったって。これで五回目っすよ」
「どうしようもねえポンコツだな。頭の中に一個しか抽斗が無いんだろうな」
「俺、ちょっくら迎えに行ってきます」
断りを入れ、後谷が事務室を飛び出した。「ったく、めんどくせえ」と悪態をつく声が遠ざかっていった。
「まんどりるー、まんどりるー、けをむしったらハゲたさるー」
しかめっ面で頭を搔く杉田の真向かいでは、希崎深衣奈が両腕に抱いたタオル地のお包みを揺すりながら歌っていた。
「まんどりるー、まんど……」
ミーナが歌を止め、甘い笑みを浮かべて麻耶を見上げる。亜麻色のウェーブがふわりと揺れた。ほんわかした垂れ目に主張し過ぎない大きさの鼻、ぽってりと肉厚の唇がバランス良く配置された顔立ちは、二十歳という年齢に相応しくない童女じみた雰囲気を漂わせながらも、男を虜にする妖艶さが適度にブレンドされている。
こんな顔で微笑まれたら、免疫がない男なんてイチコロなんだろうなあ。
「どうだったあ、今の子守唄?」
空き地のリサイタルを終えたガキ大将に感想を求められた腰巾着の心境である。
「いいんじゃない? 毛をむしったら、て箇所が特に」
「そうだよねー。この子もマンドリルが気に入ったみたい」
ふくよかな胸元へ抱き寄せたお包みに、ミーナは「ねー、ハヤト」と語りかける。とろんとした垂れ目は、幸せの光に満ちていた。
「それともオランウータンのほうがよさげ?」
「どっちでもいいよ。猿嫌いだし」
「麻耶ちゃんって、いつもそう」とミーナが丸みを帯びた頰を、ぷう、と膨らませた。
「投げやりっていうかさ、他人に全然興味が無いみたい。この子にも、かわいいねとか一度も言ってくれないし、地元の子育てサークルに参加しようかなって相談しても『やめとけ』しか言わないしさ」
「そうだっけ」ととぼける麻耶に、「麻耶ちゃんは冷たい」とミーナが追い打ちを掛けた。
「ハヤトもそう思うよね。ね?」
同意を求めたミーナを、粗雑な作りの人形がプラスチックボタンの瞳で見つめる。麻布の肌はミーナの手垢で黒ずみ、縫い糸があごでほつれている。オレンジ色の毛糸の髪が、エアコンの温風にぷらぷらと揺れていた。
だってママさんたちも対応に困るっしょ、こんな子に来られたら。
ミーナの隣でちんまりと座る嘉神紫里花が、磨きこまれた黒曜石のごとき瞳で麻耶をじっと見ていた。肩の少し上で切り揃えた髪は艷やかに黒い。
シリカは無言のまま、ニーソックスで隠しきれない太腿の瘡蓋へ視線を注いでいた。
「ああ、これ? 昨日仕事でね」
麻耶が答えると、シリカは「ふうん」とも「大丈夫?」とも言わず、視線を虚空へ彷徨わせた。清楚を湛えるこの十三歳の少女が人形のごとく寡黙なのは心得ているので、麻耶は気分を害しもせず、シリカの横に腰を下ろす。
スーパーで買ったポテトチップスをぱりぱり囓っていると、廊下が騒がしくなった。
「ニワトリじゃあるまいし、いい加減憶えろよおっさん! ほとんど一本道だろうが」
𠮟声を飛ばす後谷に続いて、髭を生やした胡瓜のような男が締りのない愛想笑いをぶら下げて事務室に入ってきた。着古してぺらぺらになったブルゾン、擦り切れて膝に穴が空いたチノパン、元の色が見えないくらい汚れたスニーカー。清潔の欠片も無い。
「悪い悪い、今度から気を付けるからよ、そんなに怒らんでくれやミツルちゃん」
「今度今度って、いっつもそれじゃねえか。たいがいにしろよ!」
二週間前に入ってきたばかりの砂原は物覚えが甚だ悪く、仕事の内容どころか最寄駅から店までの道順を憶えることすらままならない。そのくせ携帯電話の扱いには長けていて、出会い系サイトで夜な夜な若い女を漁っているのだから、杉田も後谷も面白くない。
「マジやってらんねえっす」と愚痴をこぼす後谷を、杉田がやんわり宥めた。
死の案内役のデートガールが三名。
死体処理の男たち、「黒子」も三名。
一悶着あったが、『あずらえる』の総員六名がようやく揃い踏みした。
ミーナは最前の節で「おらんうーたーん」と歌っている。マンドリルはどこに消えた。
「そうそう言い忘れてたけど」と嘉神がロザリオをデスクへ置いた。
「東北でいい出物が見つかったから、明日明後日とお休みにするわね」
嘉神がヴィンテージ品の買い付けに出ている間、店も『あずらえる』も臨時休業となる。
うっす、と杉田と後谷が声を揃える。砂原は、へえ、と気の抜けた調子で返事した。
さて二日間をどうやって潰そうか、と麻耶は思案したが、期末試験が間近に迫っていることを思い出して気が滅入った。
「それじゃあ、そろそろスタンバってもらおうかしら。今夜も精々頑張りなさいな」
麻耶の手に、即効性の致死毒タブレット「毒りんご」が収められたピルケースが握らされる。速やかに苦しまず確実に逝けるように配合された赤いプロドラッグは、仕事前に嘉神から手渡されるのが習わしである。味に癖が無く、水無しでも飲めるのがセールスポイントである。鼻を近づけると、ほんのりとりんごが香る。
嘉神がどこから毒りんごを仕入れているのか、どういうメカニズムで毒りんごが人に死をもたらすのか、麻耶は知ろうとも思わなかった。
飲んだら確実に死ぬ。その事実だけで十分なのである。
ケースをポケットへ収め、麻耶はデート通りへ向かった。
ビルの群れに押し潰された空は、すっかり紺碧に塗り替えられていた。
今日もまた、夜が始まる。まだ見ぬ誰かの命が消えるであろう夜が。
第5回につづく