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 数学の小テストだった。
 その氏名欄には当然「斉藤槍牙」と書かれていなくてはならない。
 だがそこに書かれてしまったのは、「斉藤槍牙・斉藤夢乃夫妻」というわけのわからない文言であった。
黒川「わけはわかるわよ。だって私たち夫婦じゃない」
槍牙「夫婦じゃねえよ」
黒川「恋人ね」
槍牙「違う」
 当たり前だが、この文言を書いたのは俺ではない。黒川である。
 ちなみにテスト中だというのに、黒川は俺の膝の上に横座りになっており、首に腕を回して胸の肉を顔に押しつけてくる。
 うらやましいと思った奴、代わってくれ。足のしびれと窒息しそうな暑苦しさも一緒にあげるから。
 あと「テスト中にうるせえ」という周囲からの痛い視線ごとプレゼントしよう。
槍牙「お前が直さないなら俺が直す。消しゴムどこだ」
黒川「嫌よ、夫婦の証じゃない。槍牙くん意地悪しちゃダメ」
 甘ったるい声音で耳をくすぐってくるが、無視して腕を伸ばし、机の上にある筆箱を手に取ろうとした。
 しかし黒川の手のほうが早かった。黒いマニキュアを塗ったその手が筆箱の中からさっと消しゴムをつまむと、ぽいっと放ったのである。
 消しゴムは机の上から飛びだし、床をぽーんと一度弾むと、ころころと俺の左斜め後ろ辺りに転がった。
槍牙「……黒川、どけ」
黒川「槍牙くんから離れるのは死ぬときだけと決めているのよ」
 ぎゅううう、と首に回された腕の力が強まってきて、執着っぷりが肌で感じられる。
 これでは自分で拾うこともできないし、黒川が拾ってくれるわけがない。
 ノリノリで「x=槍牙、y=夢乃 x+y=子どもは三人(上限なし)」とか解答しているのも消さなくてはならないのに。
 頑張って首を後ろに向けると――目が合った。すぐそらされるが、確かに俺たちを見ていた。
 後ろの席の、野波小百合さんが。
 野波さんとは入学してから一度も話したことがないし、彼女も無表情で無口、周囲と隔絶するように、いつもあやとりばかりしていた。
 排他的な態度は、俺と黒川をのぞけば一番の問題児だったかもしれない。
 かたくなに俺たちから目をそらす野波小百合さんのボブカットを見ながら、俺は話しかけた。
槍牙「ねえ野波さん、消しゴム拾っ――ぐう」
 喉が絞まる。耳元で黒川の甘い声が優しく言う。
黒川「槍牙くん。私以外の女を見ちゃダメ。呼んじゃダメ。覚えちゃダメ。嫉妬で殺したくなっちゃう」
 本当にこれ以上力強く抱きしめられたら死ぬ。
 何度か腕を叩いてやると、ようやく黒川が力をゆるめる。
黒川「いけない。槍牙くんが死んだら、もう槍牙くんからハグしてもらったりキスしてもらったり頭をなでなでしてもらったりできなくなっちゃう」
槍牙「気づけて良かったな……」
 さて、と俺は思考する。
 背後にいる野波さんに消しゴムを取ってもらうのが一番いいと思うのだが、彼女に「取ってくれ」と真正面から頼むことはできそうにない。
 猫のように頭をすりつけてくる黒川がそれを許さないだろう。
 一応、手を挙げて先生に消しゴムのことをそれとなく伝えてみたのだが、案の定先生は俺たちのことを見ないふりだった。見たくもないだろう。授業中にべたべたする男子女子とか。
 野波さんに消しゴムの催促をしようと、俺はわざと頭を後ろに大きくのけぞらせる。
 きっと邪魔だろうなとは思ったが、消しゴムさえくれればもうなにもやらないから、と願う。
黒川「槍牙くん、どうしてそんなに喉をさらしてくれているのかしら? 喉仏、美味しそうね。食べていいのかしら」
 ぞわっとしたが、ここで首を戻すわけにはいかないと気を強く持って――
 かぷり。
槍牙「黒川ぁ!」
 喉に生じたぬるりとした熱い粘膜に、たまらず怒鳴りつけてしまう。
 目の前に赤い舌をだらりと垂らした黒川が、にやあ、と笑ってべろりと自分の唇を舐める。
 ……捕食動物かお前は。
黒川「ダメよ、槍牙くん。小テスト中なのだから、そんな大声を出しては」
槍牙「お前に言われたくねえ……」
 たぶんクラスのみんなが迷惑だろうと思い、後ろを向いて頭を下げる。
 野波さんが、じっと俺をにらんでいた。
槍牙「あの、消しゴ――」
 どすっ! と感触がして肩口に激痛が走った。
槍牙「っ――!」
 かろうじて悲鳴を押さえて振りむくと、黒川が無表情で俺の肩にシャープペンを突き刺していた。
黒川「さっきから他の女にゴムが欲しいなんて、槍牙くんどうして私に当てつけるのかしら? そんなにゴムが欲しいなら私があげるのに、どうして他の女なんか頼るのかしら?」
 …………なんで急に怒ってんのお前?
槍牙「いや、じゃあお前が消しゴム拾って」
黒川「答案に間違いはないわよ。大丈夫」
槍牙「名前からして違うだろうが」
 ぐり、とシャープペンがねじこまれる。痛えっ!
黒川「槍牙くんが他の女を見ているだけで殺意すら湧いてくるというのに、今度は夫婦であることまで否定する気?」
 ……だって夫婦じゃないじゃん!
黒川「事実婚じゃない」
 まずい。なんか知らんが機嫌が悪い。
黒川「だって私がせっかく埋めた答えや空欄を、槍牙くんがまるで迷惑だっていう態度なんだもの」
 そりゃ迷惑だからな。
黒川「だからつい意地悪で消しゴムを投げとばしたの。そしたら当てつけに、他の女と話そうとばかりするんですもの」
 当てつけではなく必要に迫られているんだが。
黒川「だから今日の私は槍牙くんを許してあげないことにしたの。もし他の女からゴムを渡されるようなら、即座に気絶させて保健室へお持ち帰り、即着床よ」
 聞こえてくる単語の一つ一つが正気の沙汰と思えない。
 不満を伝えるつもりもあって、重く長いため息を吐きだすも、黒川はまったく察してくれなかった。それどころか笑顔になりやがる。
黒川「槍牙くんの吐息には疲労回復や美肌効果なんかがあるのよね。嬉しいわ。私にそんなにたっぷり息をかけてくれるなんて」
 ……ああそう。
 もうテストの訂正も嫌だなあ、面倒くせえなあ、今日に限って黒川も本気でお怒りだし、とあきらめかけたそのときだった。
野波「…………」
 ぽすっ、と。
 机の上に消しゴムが乗せられる。
 野波さんの、小柄な体型に比べ妙に長い指が、すごく印象的だった。
 そのまま彼女は無言で席へ戻る。
 俺と黒川はなにも言わず、彼女のボブカットが揺れるのを見ていた。
黒川「……さ、槍牙くん。保健室へ行っていやらしいことでもしましょうか」
 ……野波さん、俺になんか怨みでもあんのかな?