???「起きて。ねえ、大丈夫?」
声をかけられたので俺は起きる───あれ? 俺、寝ていたのか?
目を開けると、目の前に眼鏡をかけた女の子がいた。肌はすべすべで、非常に理知的な顔立ちをしている。
???「……私のこと、わかる?」
わからなかった。いや、見覚えはあるような気がするのだけれど。
???「同じクラスの長谷部流水よ。ほら、今日のホームルームで学級委員長になったでしょ。大丈夫? 斉藤槍牙くん」
槍牙「あ……ああ、どうも。長谷部さん」
周囲を見渡す。どうやら俺たちはトイレの個室にいるようだ。
槍牙「なぜこんなところに……っていうか、男子トイレだよね?」
長谷部「いいえ。女子トイレよ」
え、と濁った声が自分の喉から出た。
ふう、と長谷部さんが困ったような息をつく。
悩む姿もサマになっている。同じクラスということだけれど、始業式があったばかりの今日だけではまだクラスの全員を覚え切れていない。
ただ確かに、よくよく見れば大人びた雰囲気ながらも、可愛らしい顔立ちではあった。
長谷部「斉藤くんは頭を打ったから、混乱しているのかもね」
槍牙「頭を打った? 俺が?」
長谷部「たんこぶになっているわね。ええと……図書館にあなたたちが来たところからでいいかしら?」
事情を説明してくれるようだ。
でも「あなた」でなく「あなたたち」?
長谷部「そう。放課後、あなたは黒川夢乃さんと一緒に図書館へ来たの。そして黒川さんは大きな声であなたと雑談を始めたのよ」
黒川夢乃。
俺にとっては最悪の公害ストーカー女である彼女の名前を聞いて、ああ、またどうせろくなことにならなかったんだな、と察した。
なおストーカーではあるが後ろから隠れて尾行するなどということを彼女はしない。
まるで恋人であるかのような振る舞いをして延々と俺にまとわりつくのである。
長谷部「内容は、赤ちゃんの名前はなににするかとか、そういう話題だったみたいだけれど……命名辞典を探していたみたいね」
それは思いだしたくなかった。
長谷部「私は同じクラスだし、学級委員長という立場もあったから黒川さんに注意したわ。『図書館では静かにして』って」
槍牙「あー、そりゃ従わないな。文句の一つでも言ってきたか?」
長谷部「手近にあった花瓶で、彼女は私を殴ろうとしたわ」
普通に傷害事件だな、それは。
長谷部「それをかばおうとして、あなたは私の代わりに殴られてしまった。斉藤くんは身をていして私を守ってくれたというわけ」
長谷部さんが穏やかな笑みをたたえ、俺の頭───たぶん殴られたという箇所───を優しくなでた。
長谷部「ありがとう、斉藤くん」
槍牙「……いえ」
話を聞いていて少しずつ、思いだしてきた。確かにそんなことをしたような気がする。
槍牙「それで、俺は確か長谷部さんをかばいながら黒川から逃げようとして廊下に出て……」
長谷部「トイレの前で意識を失ったから、私は斉藤くんごとこの中へ隠れた、というわけ。斉藤くんが気絶していたのは、数分よ」
……と、いうことは。外では黒川がまだ俺たちを探しているのか?
長谷部「しっ! 黙って!」
長谷部さんのすべすべとした手が、俺の口を押えてくる。爽やかないい香りがして、ちょっとどきどきした。
ぎぃ、と音を立てて誰かが外から入ってきたのがわかる。
こつ、こつ、こつ、という特徴的な音はパンプスかブーツだろう。
そんな不適切なものを履いている奴に、心当たりは一人しかいない。
黒川「そーおーがくーん。どーこいーるのー?」
ここに隠れているのがバレているのか? 震えそうな口の動きを、長谷部さんの手がぎゅっと押さえてくれている。
黒川「……いないのかしらね。なんとなくこっちと直感が告げているのに」
怖えなあ、お前の直感。
黒川「こういうとき、槍牙くんが持ち運びできるように生首だけになればいいのにとか思っちゃうのが私の悪い癖よね」
お前なに猟奇的なことを考えてんだ。
黒川「でも槍牙くんの首から下も好きだから、やっぱり生首にはできないわね。腕も足もお腹もぜーんぶ……ふふっ、ふふふふふっ」
独り言のつもりらしいのだが、もしかして俺たちがここにいることがバレているのではないかと思えて気が気ではない。
長谷部(たぶん、大丈夫よ。確信があれば扉を破壊しかねないから、彼女)
長谷部さんがアイコンタクトでそう言っているような気がした。
コン、コン、コン。
不意に、目の前の扉がノックされた。
黒川「ねえ、誰か入っているわよね? 誰かしら? ねえ。入っているわよね? 中に誰かいるわよねえ?」
コンコンコンコンコンコンコンコンコココンココンコンコンコココンゴンゴンゴンゴンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバン!
ノック怖っ! お前どういう叩き方してんだ!
長谷部(私が答えるから、物音を立てないで)
レンズ越しにきつくにらんできた長谷部さんに、俺は無言でうなずいた。
長谷部「は、はい! 入っていますけど」
ノックの音がぴたりと止む。
黒川「ねえあなた。槍牙くん知らないかしら?」
長谷部「さあ……知りませんけど?」
黒川「そう」
あっさりと退き、黒川が立ちさる靴音が響く。
蝶番の音がしたので、トイレの扉も閉められたのがわかった。
長谷部「───ふうっ」
長谷部さんが息を吐き、俺の口から手を離した。
細くてたおやかな白い指が、わずかに俺の唇をなぞったのを彼女は意識しなかったようだ。
長谷部「それにしても、外に黒川さんがいると出るタイミングがないわね」
槍牙「あ……うん。でもあいつ、もう長谷部さんのことはどうでもよさそうだったね」
あの不穏な独り言は、すべて俺一人に向けられたものだった。
おそらく長谷部さんに殴りかかったことなど、もう忘れたのだろう。黒川は頭こそいいが性格は単純だ。
長谷部「じゃあ私は普通に出ればいいかしら。斉藤くんは?」
槍牙「……なるべく逃げて、さっさと家に帰るよ」
???「そしてちゃっちゃと私と子づくりをするのよね?」
ん? と俺と長谷部さんが顔を見合わせる。
それからゆっくりと、視線を上にあげた。
黒川「見ぃつけたぁ」
にやあ、と黒川が笑っていた。
個室と天井の間から、俺たちをのぞきこんでいた。
槍牙「うああああああ!」
叫びながら開錠し、強引に扉を開けて外へ出る。
女子トイレの構造なんて知らないが、目に入ったドアから外へと飛びだした。
やべえ。長谷部さん置いてきた。
振りむく。黒川がトイレの中でなにをしているか。長谷部さんに暴力を働いていないか。
どうする、逃げるか、と自問したが一瞬で否定する。
助けてくれた長谷部さんに、そんな不義を通すわけにはいかなかった。
槍牙「黒川! 一緒に帰るからさっさとこっちに来ぉい!」
あらん限りの大声を張りあげた。
じっと待つ。一秒、二秒、さ───
黒川「槍牙くぅん!」
女子トイレの扉を壊しそうな勢いで、ゴシックロリータ姿の黒川が弾丸のような勢いで飛びだしてきた。
血走った目。吊りあがった口の端。垂れる涎。俺を捕獲せんと広げられた両腕。
見た瞬間に怖気が走って俺は走りだす。
黒川「待って槍牙くん! いま追いつくわ! そしたら一緒に帰りましょう! 手をつないで! 腕を組んで! 抱きあって! 口づけて! からみあって! うふふふふふふふあははははははははははははは!」
後ろから迫ってくる。
捕まったら死ぬとすら思える緊張感の中、俺はただ、彼女のことを心配していた。
───長谷部さん、ちゃんと逃げられたかなあ。